ダイスケはまっすぐ帰る気分にはなれず、気づくと喫茶『ささもと』にいた。
ここは大学時代、同じ学部の友人たちとよく来た場所だ。ダイスケの自宅からも近いので、イラストを描いていて煮詰まったときなどに、よくここへ来て作業している。
ダイスケはソーダフロートをすすりながらポートフォリオを眺め、さっきのやりとりを思い返していた。
「独りよがり」「趣味で描いていればいい」「コネでもつくれば…」
初めての持ち込みでの出来事は、免疫のないダイスケにはあまりにも打撃が強かった。
大学という「ぬるま湯」に漬かりきっていた自分には、現実の厳しさが身に染みた。
ダイスケはポートフォリオからイラストの紙を取り出すと、破ろうとした。
「ちょっとちょっと、どうされたんですか」
ダイスケが顔を挙げると、そこには心配した表情の『ささもと』のマスターがいた。
大学時代からこの店に通い始めて10年以上が経つが、マスターが自ら話しかけてきたのははじめてである。
ダイスケはまず、そのことに驚いた。
「そんな素敵な絵を破るなんて、もったいないですよ」
「いいんです。どうせ……才能ないですから」
「才能、ですか」
マスターは、遠い目をしてそう言った。
「今かかっている曲はね、実は私が弾いているんです」
「え!」
ダイスケは驚いた。
店の中にはいつもクラシックな音楽が流れているが、今日はムーディーなピアノの音色だった。
「マスター、ピアニストだったんですか!?」
「“元”ピアニストです。もっと正確にいえば、ピアニストになる前に挫折したので、元ピアニストですらないですが」
マスターは、カウンター越しにカップを拭きながら言う。
「家が貧しくて音大に行くお金はなかったものですから、アルバイト代でピアノを買って、必死に練習しました。録音したテープをレコード会社に送ったりもしたんですが、全然ダメでね。結局あきらめて、今の仕事をはじめたんです」
「そうだったんですね……」
「この仕事には満足していますが、ときどき思います。あのとき、自分のちっぽけなプライドなんて捨ててがむしゃらにやっていたら、今ごろどうなっていたんだろうって」
「……」
「そのイラスト、破るんだったら私にくれませんか」
「別に、いいですけど……」
今のダイスケには、イラストを取っておく理由も見つからなかったため、マスターに手渡した。
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それからというもの、ダイスケは転職活動をしながら、事務補佐員の仕事をつづけた。
しかし転職先は決まらず、時間だけが過ぎていった。
イラストは、持ち込みにいったあの日から書いていない。
ダイスケはふと、いつも根拠のない自信にあふれたイケメンの同級生のことを思い出していた。
イケイケな性格でダイスケとは真逆だったがどこか憎めないヤツで、アイツだったら周りから何を言われても、自信を失うことなどないのだろうなと思った。
あっという間に、契約満了の日がやってきた。
夜には職場のメンバーがダイスケの送別会を開いてくれることになっている。
それまでまだ時間があったため、ダイスケはあの日から行っていなかった『ささもと』へ向かった。
きっとこれからは行く機会もなくなるだろうし、最後に一度くらい行っておこうと思ったのだ。
店内の席につき何の気なしに顔を挙げると、額に飾られた自分のイラストが目に飛び込んできた。
「あの……これ……」
ダイスケはイラストを指さしながら、水を注ぎに来たマスターに言った。
「ああ、うちの店の雰囲気に合うと思って、飾らせていただきました。ダメでしたら、外します」
「ダメではないですけど……」
「ごゆっくり、どうぞ」
マスターは頭を下げると、カウンターへと戻っていった。
ダイスケは自分のイラストを改めて眺め、気恥ずかしいような不思議なような、なんとも言えない気持ちになった。
だが、決して悪い気分ではなかった。
会計の時、「クレジットカード決済はじめました」という貼り紙が目に入った。
タイムスリップしたような空間の『ささもと』も、ついに時代の波に乗ったのか。
驚きつつも、ダイスケはフリーでイラストレーターの仕事を始めた時につくった三井住友ビジネスカード for Ownersで支払いをした。
「あ、そうそう。これ、この前来たお客さんが」
ダイスケが店を出ようとすると、マスターが1枚の紙を手渡してきた。
それは、広告制作会社の社員の名刺だった。
「自社でパンフレットを制作している会社の方だそうで、あのイラストがパンフレットのイメージに合うというので、『ぜひ一度、このイラストを描いた方と会ってみたい』とおっしゃっていて。それで、次にお店にいらっしゃるのを待っていたんです」
ダイスケは一瞬マスターにからかわれているのかと思ったが、名刺とマスターの表情を見るに、どうやら本当のようだ。
「チャンスはいつも突然やってくるものですが、そう何度もあるわけじゃない。少し長く生きている私からの、アドバイスです」
マスターは、微笑みながら言った。
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ダイスケは店を出て少し歩くと立ち止まり、名刺に書いてある番号にすぐに電話を掛けた。
「もしもし……」
名刺の担当者とつないでもらい、近日中に会う約束をして電話を切った。
―しばらく描いていないから腕がなまっているし、早く家に帰って描こう。
基礎の部分も、もう一度学びなおさなくちゃ。
ダイスケは、気づくとアパートへ向かって駆け出していた。
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五年後。
『ささもと』には5人の男たちがいた。今日はもうすぐ、大学の商学部の同窓会が控えている。
「ケンタの店、最近よくテレビに出てるよな」
ナオキが言うと、ケンタは照れ臭そうに笑って言った。
「リョウちゃんの番組が、ウチに取材に来てくれたおかげだよ」
「さすが、名ディレクター」ダイスケがつぶやく。
「新しい店のほうも順調なんだろ? タツヤもすっかり『有名人』だな」ナオキが言う。
「まあね」タツヤが得意気な表情で返す。
ケンタが店主をつとめる『イノウエ』は、リョウが担当する情報番組で取り上げられたのをきっかけに、ほかの媒体でも取り上げられるようになった。
広く知られるようになり、地方からもお客さんがやってきてくれるようになった。
2年前からは東京にデリバリー専門の店をオープンし、デリバリー経験のあるタツヤが店長をつとめている。
『イケメン店長』と話題になり、今ではバラエティ番組などの取材も多い。
「でも、ナオキも今や課長だろ、すげぇよな」タツヤは感心したように言った。
「責任はますます重くなって大変だけどね。今どきの新卒って、宇宙人みたいで参るよ」
ナオキはそう言いながらも、どこか嬉しそうだ。
ナオキは同じ人材広告会社で働きつづけ、今では数十人の部下を束ねる立場となった。
「そういえばダイスケのイラスト、スマホの広告で見たよ。独立しないの?」とリョウが言う。
「もうそろそろかな。ようやく、なんとかイラストの仕事だけでも生活していける目途が立ちそうだから」
ダイスケは大学の仕事を辞めたあと、デザイン会社に転職してコツコツとイラストレーターを続けていた。
広告制作会社からもらった、パンフレットの挿絵の仕事をきっかけに、イラストの依頼も増え安定してきた。
「良かったな。あ、ごめん。ちょっと仕事のメール返すわ」リョウは、スマートフォンを取り出した。
「休みの日なのに大変だね。リョウちゃんって、今どれくらい番組持ってるの?」ケンタが聞く。
「5つくらいかな。あとは今、新番組の準備もしてるところ」リョウは、スマホから顔を挙げて答える。
リョウは尊敬するディレクターのいる会社に移り、それから2年半ほどでディレクターに昇格した。
現在はバラエティ番組を中心に携わっている。
「オレたち、それぞれに『人生の曲がり角』ってヤツを越えてきたんだなぁ」
ナオキが、しみじみと言った。
「なにしんみりしてんだよ、オヤジみたいだぞ」タツヤが茶化すように言った。
「あ、そろそろ行かないと」
ケンタが時計を見て立ち上がり、他の4人もそれにつづき、レジへ向かった。
「お会計は、もうお済みです」
ケンタたちが財布を取り出して支払おうとすると、マスターが制した。
「え? 一体誰が……」
4人が視線を感じてふと振り返ると、ナオキが三井住友カード ゴールドを得意気に掲げている。
「一応、管理職のはしくれですから」
ナオキは、ニヤリと笑いながら言う。
「すげー!!」
ナオキ以外の4人は、思わず大声をあげた。
店の外に出てはしゃぎながら歩いていく5人の後ろ姿を、マスターは学生時代の頃と重ね合わせながら、温かいまなざしで見守っていた。
作:手塚巧子