オトコたちの曲がり角 第三話「苦難に射し込むかすかな光」後編

Pocket

 ある夜、ナオキは会社から少し離れた大衆居酒屋のカウンターで、ひとりビールを飲んでいた。

店の扉がガラリと開き、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。

ナオキが横目でちらりと見やると、さっき電話で話していた後輩と、もうひとりは同じくナオキの部下だった。

二人とも、入社二年目の若手だ。ナオキに気づく様子もなく、二人は奥のテーブル席に腰かけた。

 今はプライベートの時間だし、盗み聞きはいけないと思ったものの、ナオキはさりげなく二人の会話に聞き耳を立てた。

二人は、最初のほうは最近見た動画の話や洋服の話など、いまどきの若者らしい話をしていた。

「ナオキさんって、なんか暑苦しいんだよなぁ」

 急に自分の名前が聞こえ、ナオキは思わずドキッとした。

「あの体育会系のノリは、オレらにはちょっとキツイよね」

 もうひとりの後輩が、軽い調子で言う。

「そうそう。今日も、契約切られた客に、また時間あけてアプローチしてみろとか言われたんだけど。オレ的には、断られちゃったんだからもういいじゃん、って感じなんだよね。他の客探したほうが早くない?」

「あー、そうかも」

「ムダなことして時間使いたくないんだよな。そもそも、入りたくて入った会社でもねえし」

「あ、それ言っちゃう?」

 後輩たちは、そう言って笑い合っている。

ナオキは二人に気づかれないようそっと席を立ち、社会人になってからはじめてつくったクレジットカードであるオリコカード・ザ・ポイントで会計をし、店を出た。

ナオキは茫然として歩きながらも、「誰に聞かれているかわからないんだから、社外でも『客』ではなく『クライアント』と呼ばないとダメだぞ」と、後輩に注意したいことが酔った頭に浮かんだが、すぐ消えた。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 日曜日の午後、ナオキは喫茶『ささもと』にいた。母校の大学のグラウンドで軟式野球部の試合があり、OBとして見に来たのだった。

ナオキも休日はときどき草野球をやっているが、久しぶりに懸命に取り組む後輩たちの姿を見ながら応援をするのは、良い気分転換になった。

 『ささもと』も古びた椅子に座っていると、大学時代を思い出す。

練習や授業がないときは、ナオキの所属していた商学部の仲間とここへ来てつるんだものだった。

ナオキにとって、部活以外でできた唯一の友人たちだった。

店の壁には、その中の友人のひとり、ダイスケの描いたイラストが飾られていて、ナオキは懐かしくなった。

 明日からまた仕事なのかと考えると、ナオキは憂鬱になった。

後輩の会話を聞いてしまったあの日から1ヶ月以上が経つが、忙しい日々の中でも、いまひとつ仕事に身が入らない日々が続いていた。

年下に振り回されて情けないのだが、後輩たちの会話にショックを受けていることは明白だった。
 
今の会社にいなくてもいいんじゃないか・・・。

ナオキは、ふとそう思った。

正直なところ、ナオキは今の会社で働き続けたいのかどうか、わからなくなってきていた。

ほかの会社がどんな会社なのかはわからないが、少なくとも、後輩に振り回されたり、陰でバカにされたりしないような環境で働くことも、できるんじゃないか。

ナオキはスマートフォンから、他社の転職サイトを開いた。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 「ご相談があるので、ご都合のよろしいときにお時間をいただけますか」

 金曜日の夜、ナオキは営業から帰社したあと、来週の会議資料を作成していた上司へ伝えた。

社内に人はまばらで、営業部には上司とナオキしかいなかった。

「いいよ、今忙しくないから」

 そういうと、上司は会議室の方向へ向かって歩き出した。

ナオキも、慌ててついていく。

まさかすぐに話すとは思っていなかったため焦ったが、どうせ伝えることは同じなので、いいタイミングだとも思った。

上司は先に小会議室に入り、明かりをつけた。ナオキはそれに続き、ドアを閉めた。

 ナオキの胸ポケットには、退職願が入っていた。

実は先週、1社から内定をもらったのだった。

内定先は新進気鋭のベンチャーで、転職アプリの開発、運営をおこなう会社だった。

設立年数も浅く社員数も少ないが、今、急成長している会社である。

ナオキが応募したところすぐに面接となり、「これまでの営業のノウハウを、当社でぜひ活かしてもらいたい」と、応募から1ヶ月足らずで内定をもらった。

年収などの条件は今よりやや下がるものの悪くなく、むしろ人数が少ない分、成果を出せば今の会社よりも早く、高い評価や昇進のチャンスを得られる可能性は十分にある。

「最近、がんばっているな」

上司の第一声に、ナオキは驚いた。

ナオキの上司は無口で、よく言えば部下たちの自主性に任せ、悪く言えば必要なことしか言わないタイプだ。

感情をあらわにするタイプでもなく、社内にいるときはただ黙々と仕事をしているため、影ではひそかに「地蔵」と呼ばれていた。

「いやぁ……。部下の指導もなかなか難しくて、苦戦しています」

ナオキのチームの営業成績はここのところ今ひとつで、ナオキも後輩を集めてミーティングをしたり、成績の芳しくない後輩の営業同行などをしたりしていた。

しかし思うように成果は出ておらず、最近の仕事ぶりを怒られるのではないかとヒヤヒヤした。

「前に、後藤っていただろう」

 上司は、半年前に会社を辞めた社員の名前を出した。ナオキは暗い気持ちになった。

その後輩は、ナオキが人一倍目をかけていた後輩だったからだ。

不器用だったが一生懸命で、ナオキの指導も素直に受け入れた。

そのおかげで、営業成績は飛躍的にアップした。

しかし、後藤はそれからほどなくして会社を辞めてしまったのだった。

退職の理由は「一身上の都合」だったが、噂では大学時代からどうしても入りたかった会社に、中途入社で受かったとあとから聞いた。

後藤はナオキに最後まで世話になったお礼を述べてくれたが、ナオキは、途中で辞めてしまうのは、自分の力不足のせいではないかと思っていた。

「辞めるとき、『ボクもナオキさんみたいに、後輩に親身になってあげられる人を目指します』って言ってたぞ」

 そんなことを言っていたのか。ナオキは意外だった。

それと同時に、なぜそれを半年後の今になって言うのだろうと思ったが、地蔵なのだから仕方ない。

「部下とはいえ当然自分の思い通りにはならないし、できないことをできるようにさせるのも苦労する。でも、だからこそうまくいったときの喜びは大きいし、その経験は、必ず自分を成長させているものなんだよ」

 上司は、ゆったりとした口調でそう言った。

―自分がやってきたことは、無駄じゃなかったんだ。

ナオキは、苦しいことばかりのこの日々が、少しだけ報われた気がした。

仕事中に涙がこぼれそうになったのは、これがはじめてだった。

「で、話ってなんだ」

 上司が言う。

「あ……」

 上司は、口ごもるナオキの顔を不思議そうに見つめている。

「……あの、今使っている営業管理表のフローについてご相談なんですけれど」

 ナオキは、特に急ぎではない要件をもっともらしく伝えた。

「なんだ、深刻な顔して席に来るから何かと思ったよ。それなら、わざわざ会議室に来なくてもよかったな」

上司は微笑んだ。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 ナオキが会社を出ると、外はすっかり暗くなっていた。

会社のビルを見上げると、まだところどころ電気が点いているフロアがある。
 
「もう少し、ここでがんばってみるか」

ナオキはダストボックスを見つけると胸ポケットから退職願を取り出し、放り込んだ。

作:手塚巧子

Pocket