「いいかげんにしろっ!」
父の怒鳴り声が、二人だけにしてはいささか広すぎる居間に響き渡った。
タツヤは父親と自分は全然似ていないと思っているが、その少し甲高い声を聞くといつも、ここだけは似ていると認めざるを得ない。
父が声を発すると同時に手のひらでテーブルを叩いたため、テーブルに置かれた、湯飲みに入ったお茶の表面に波紋が広がった。
お茶は、もうすっかり冷めきっている。正面に座るタツヤは俯きながら、その波紋をじっと見つめていた。
ー面倒なことになったな。
表面的には深刻な表情を繕っていたタツヤだったが、内心では舌打ちをしていた。
この春に定年退職をした父親が平日に自宅にいることを、タツヤはすっかり忘れていた。
「30にもなって、いつまでプラプラしている気だ!」
「プラプラなんかしてねーよ。オレは、有名になるために色々やってんだよ!」
タツヤも、負けじと語気を強めた。
「そんなこと言ったって、ひとつも長続きしていないじゃないか! そろそろ現実を見ろ!」
タツヤに被せるように父が言う。
「若者の可能性を潰す気かよ!」
「もう若者って年でもないだろう! いつまでも学生気分でいるんじゃない!」
父は立ち上がり、居間を出て自分の書斎へと入っていった。
「……お父さんもね、あなたのためを思って言っているんだと思うのよ」
玄関先で靴を履くタツヤの背中に、母の声が降ってきた。この日に限って面倒な紐靴を履いてきてしまったことを、タツヤは悔いた。
「私は、もちろんタッちゃんのことを応援しているけど……」
「……」
紐をすべて結びきらないまま、タツヤは母のほうを振り返ることなく立ち上がり、ドアを閉めた。
閑静な住宅街に立つ、古いがよく手入れされた実家を外から眺めていると、険しい表情で書斎にこもる父と、頬に手を当てため息をついている母の姿が浮かんだ。
その想像を振り払うように、タツヤは速足で実家をあとにした。
タツヤの実家は、わりと裕福な部類に入る。
父はこの春まで信用金庫の役員を務め、母は主婦業のかたわら、数年前から自宅でパッチワーク教室を開いている。
子供の頃から家族で毎年海外旅行へ行っていたし、中学校から大学までは、私立の一貫校に通った。
年の離れた二人の姉もそれぞれ別の私立一貫校へ進み、一番目の姉は結婚して駐在員の妻となり、夫と子どもとカナダで暮らしている。
二番目の姉は、メーカーの管理職として忙しく働いている。つまり、タツヤ以外は立派に自立した。
大学時代、タツヤは親が用意してくれたオートロック付きのマンションに住んでいた。
卒業してしばらくは仕送りをもらっていたが、父の判断により、仕送りは26歳のときに突然打ち切られ、マンションも出るはめになった。
そこからは安アパートを借りたり、知人とルームシェアをしたり、知り合った女性の家に転がり込んだりして暮らしていた。
タツヤはカネがなくなると実家に帰り、母にせびった。
タツヤの母はそんなタツヤをたしなめながらも、年の離れた末っ子可愛さに、言われるがまま小遣いを与えていた。
タツヤは今日も、それを目的に実家へ行ったのだった。
そのことに薄々気づいていた父は、仕事を辞め収入がなくなったこのタイミングで、「お前にやるカネはもうない」と、タツヤにはっきりと告げたのだった。
会社からの退職金や年金、今までの貯金は当然あるのだろうが、タツヤには、もう一銭たりとも出したくないようだ。
「有名になりたい」──タツヤには、小さい頃から漠然とそんな想いがあった。
小学校の文集の将来の夢の欄には、堂々と「スーパースターになりたい」と書いた。
実際、タツヤはルックスがかなりよかった。
二重の目にスッと通った鼻筋、小さな顔に細身の身体。
小学校から高校まで「学校イチのイケメン」の座は不動だったし、クラスでの地位は当然、常に一番上だった。
上級生や他校の女子から連絡先を書いた手紙をもらったり、合コンに行けば全員がタツヤ狙いだったりという、天国のような学生生活だった。
大学時代は、飲み会にイベントととにかく遊びまくり、この世の春を謳歌していた。
「オレはこんなにイケているんだから、絶対に有名になれるはず」
そう信じてやまなかったタツヤは就活もいっさいせず、卒業後は芸能界を目指した。
芸能事務所へ応募するが、大手は全滅。
どうにか引っかかった少人数の事務所に研修生として所属するが、芸能界の中ではごまんといる程度のルックスのうえ、実力も際立った個性もないとなれば、もちろん仕事などない。
演技や踊りのレッスンも面倒になってすぐに行かなくなり、26歳のときに芸能事務所を辞めた。
それから1年ほどふらふらしていたが、あるとき「バンドなら成功できるはず」と突如ひらめき、メンバーを集めてバンドを結成し、ボーカルを担当した。
ただ、タツヤはとにかく歌が下手で、表現力もなかった。
棒立ちで歌う姿は素人のカラオケ以下で、タツヤ目当てでライブに通っていたファンも、ひとり、またひとりと減っていった。
ろくに練習にも参加せず、あるときギター担当から「お前、真面目にやる気あるのかよ」と胸ぐらをつかまれて大ゲンカになり、脱退した。
そのあとも、芸人、ホスト、YouTuber……と手あたり次第「目立てそうなこと」にチャレンジしてみたものの、どれも芽が出ずすぐにやめた。
「そこそこに見た目が良くてイケていても、それだけですべてうまくいったり、成功したりするわけではない」
学校と社会の歴然とした違いに気がついたとき、タツヤはすでに、30歳の誕生日を間近に控えていた。
「あー、これからどうすっかな……」
帰り道、タツヤは途方に暮れていた。
宅配ピザのデリバリーのアルバイトはしているものの不定期で、まとまった収入があるとはとてもいえない。
頼みの綱だった実家も、もう当てにできない。
大学を卒業してからのらりくらりとやってきたが、そろそろ限界がやってきていた。
夕方の17時を知らせるチャイムが響き渡り、それがタツヤの侘しい気分に拍車をかけた。
作・手塚巧子